「阿弥陀池」と私 (12)
2006/08/30(Wed)
これで、「阿弥陀池」の話はおしまいです。こんな長ったらしい話を最後まで読んでくれた方!ほんとうにありがとうございました。卒業して10年以上経つのに、書き始めると止まらなかった。とにかくこのときの絶望感、焦燥感、選択と集中、達成感、その他ごちゃまぜになったジェットコースター体験をとにかく記録しておきたかったのだ。

 あれから13年たった。冷静に振り返り、なるたけ客観的に自分を見て書いたつもりだ。そこで、やはりぶち当たるのは、あの引退公演は僕の「企画」が当たっただけであって、古典落語のもつ普遍的な面白さ、すなわち人間の喜怒哀楽への共感に起因する笑い、とは比較するべくもない、と言う劣等感。とにかくそのことについては、確信犯ではあるが、本流から外れたことをした後ろめたさ、みたいなものは、やはり、今でもずっとつきまとっている。もし生まれ変われるなら、落語が上手な人に生まれ変わりたい。でも・・・今のギャグっぽい嗜好の自分は残しておきたい、という気もする。(どないやねん)
 だから、「結論としておまえの阿弥陀池は、つまるところどうやったんや」と聞かれると、いまだに結論出ませんわ、としか答えようがない。今回ブログに書いてみて、改めてその、結論出なさ加減に自分でも驚いています。そらそうやがな、落語は4回や5回人前で演じたくらいで、結論出るような芸と違うわい、と開き直りつつも、おいそれとはその頂きを窺う事ができない芸能に、曲がりなりにも触れ続けられることは、自分の人生にとって幸せなこっちゃな、と悦に入ったりもする。

 ただ、現役当時の、自分全てを賭けた舞台、それに勝るものに合間見えることはもう無いだろう、みたいな軽い絶望感はある。いくらOBが上手でもセンスがよくても場数を踏んでいても、かなわない、「ほとばしるもの」を持っている。だからこそ、現役の皆さんにはお願いしたい、舞台から何かをほとばしらせることで、後輩に歴史をつないでほしい。それ以外は、極端な話、どうでもええことですわ。自分の落語で悩め。苦悩の泥沼でのた打ち回れ。いいですか、人生には「寄席前」と「寄席当日」しかないのです。どこかの舞台で、全てを賭けてみてください。

「落語大学」に関してはいくらでも書きたいことがある。昔のことばっか思い出してもいられないけど、思いついたら又書いてみたいと思います。
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「阿弥陀池」と私 (11)
2006/08/28(Mon)
 来舞さんはいわゆる「ミスター落語大学」みたいな人で、落語大学の精神性をそのまま体現したような人であり、いわゆる「落語大学的なもの」を語らせたら日本一だった。自分でも物凄い落語をする人で、いつかはあの人みたいな舞台をやってみたい、と思わせる、現役からしたら雲の上の人物のひとりである。いつでもビールを飲みながら、昔の落語大学の話、落語そのものの話をしてくれた。延々と話を聴きながら、でもそういうシチュエーションの話の中で、落語大学の後輩は先輩から、クラブのスピリチュアルな部分を受け継いでいっていたのである。
 その時、来舞さんはいつもの様に、酔っぱらっていた。落語に出てくる酔っ払いそのものみたいだった。その来舞さんが、僕をつかまえて「ま、ま、豆蔵やないか。まめぞー。豆蔵、お、おま、おまえな、」と、六代目松鶴のような口調で話し始めた。
 ぼくはてっきり、ボロクソに言われるものと覚悟していた。何じゃお前、最後の舞台であの悪フザケは、後輩にあんなもん見せて恥ずかしないんか・・・・・・

「ま、ま、豆蔵、お前、良え落語したやないか~。あんな阿弥陀池初めて聴いた。全部バシーっと決まっとったな。ほんま、ええ落語しとった・・・・・・・」

 酔いたんぼの来舞さんの話は、そのあと、繰り返しも含めてかなり続いたのだけど、よく憶えていない。なぜなら、僕は泣いていたから。涙と鼻水でぐっちょんぐっちょんになって泣いていたからだった。チャレンジャーの店内はテレビゲームの電子音の喧騒で話し声なんか怒鳴らないと聞こえないはずなのに、僕の耳には来舞さんの言葉しか入ってこなかった。嬉しかった。ただただ、「ええ落語した」と言ってもらえたのが、本当に本当に、本当に嬉しかったのだ。諸先輩から比べれば、取るに足らない、それこそ邪道な演者の僕に。決して、落語そのものは誉められたものではないはずの僕の舞台を、「ええ落語や」と言って誉めて下さった、来舞さんの、ひいては落大のふところの深さを、感じずにはおれなかった。4年間、落語大学にいて、初めてのことだった。やった事の是非はともかく、尊敬するOBに「ええ落語やった」と評価してもらえた事で、ブスブスくすぶっていた心のもやもやは霧散し、僕はなんか「成仏」したような気分だった。
そして、「成仏」したことで、それまでの余計な心のこわばりが一気に解け、チャレンジャーのカウンターの横の、両替機の前で、僕はそれこそ、目玉が溶けてなくなってしまうくらい、大泣きしてしまったのだった。
 結局、4年間を通じて、まともな落語はできなかったけれど、最後の最後に、ヘンテコな色のあだ花をひょっこりと咲かせたことで大いに満足し、僕は落語大学を、関西大学を巣立っていったのだった。(最終回につづく)
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「阿弥陀池」と私 (10)
2006/08/27(Sun)
 僕たちの引退公演は、企画部長だったぴいちの打ち出した方針を尊重し、落語と爆笑タイム(下級生によるコント)だけに絞った、シンプルな寄席になった。演者は、皆すばらしい舞台を見せた。ぴいちの「花筏」、歌麿の「稽古屋」、いろはの「夢八」、そしてぺぷ志の「ぬけ雀」。どれもこれも本当にいい舞台だった。
 そして僕の「阿弥陀池」は、自分で言うのもおこがましいが、大成功だった。自分で仕込んだネタはあらかた成功し、お客はヒーヒー言って笑っていた。落語大学の寄席でこんな演者はいないのだから、まあ、目新しいのが半分、聞き慣れた「阿弥陀池」と言うメジャーなネタを思いっきりイジったので、落語を聞きなれたお客、例えば他大学の落研連中を意外性で笑わせたのが半分、てなところだったのではないだろうか。笑い声がなかなか収まらないので、収まるまで次の台詞を待つ「笑い待ち」みたいなことまでする必要があった。こんな事、生まれて初めての体験である。確かに、笑いの神様が降りてきていた。
 約30分の舞台を終え、僕はヌケガラのようになって舞台を下りた。
舞台袖で、僕はやたらと気分さわやかだったのと、僕の次の演者のぴいちが、ものすごいやりにくそうだったのとを覚えている。ごめんね。

 舞台で大爆笑を取りたい、という第1の目的は、曲がりなりにも達成した。表むき、僕は、受けたんだからええじゃないですか、文句があるならどうぞ言ってくれ、みたいな、妙に開き直った態度をとっていた。しかし内心、僕はガクガクブルブルしていた。心あるOBの方々はいったいどう見たのだろうか。襟首をつかまれて目の据わったOBの前に座らされ、延々と講釈を垂れられるんじゃないか、と、僕は4回生にもなってヒヤヒヤしていた・・・・
 いや、ちょっと違う。講釈はまだいい。反省した顔して聞いてればいい。僕が本当に怖かったのは、これだけの覚悟と集中力で持った望んだ舞台が、プラスにもマイナスにも評価されないことだった。これだけの思い入れをブチ込んだ落語を、何らかの形で、評価して欲しかったのである。4年間、箸にも棒にもかからない演者だった僕は、自分の落語に対する評価に飢えていたのだ。怒られるのを分かっていながらオモチャ箱をひっくり返して、親の顔色をうかがっている子供のようだった。落語で、僕は誰かに相手にして欲しかったのである。

 打ち上げの席では、僕はかなりの評判でもって迎えられた。反感を持った人も確実にいたと思われたのだけど、引退公演だから大目に見てくれたのもあるんであろう、説教垂れてくるOBも皆無だった。落語大学いきつけの喫茶店「シャモニ」のバイトの女の子、通称「シャモギャル」たちも、「豆蔵さんチョー面白かった」とえらく誉めてくれた。
 シャモニでの打ち上げは、まあ、いい気分だった。みんなが「面白かった」と言ってくれた。ただ・・・何かしら、欠落感を感じていた。ほめてもらっておきながら、なにかうら寂しかった。自分のした事に対する後ろめたさを、今さらながら感じていた。4年間自分を育ててくれた落語大学に、後ろ足で砂を掛けたような気分だった。俺のやった事は何だったんだろう。どっちにせよ、俺のやった事は、取るに足らん、戯れ言や・・・

ぐるぐる回る頭をかかえながら、宴半ば、僕はシャモニの隣のゲーセン「チャレンジャー」のトイレに向かった。シャモニのトイレは混むので、みんなシャモニでの宴会の時は、よくチャレンジャーのトイレに行っていたのである。

 そして用を足した帰り道、OBの来舞(らいぶ)さんに出くわした。同じようにチャレンジャーのトイレにやって来たのだ。一気に僕は酔いが醒めてしまった。(つづく)
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中入り
2006/08/26(Sat)
先日来、書きなぐっております 「 『阿弥陀池』と私 」。

こんな昔の話、しかも極私的な内容で、笑うところも皆無で
皆さんに申し訳ないなあ、と思いながら書き始めたのですが、
いままで意図的に落語大学のことはブログで触れないように
してきた反動もあって、当初自分で考えていたより、はるかに
細かいところまで、記憶を掘り起こして書いてしまいました。
しかも、まだ終わりません。「忠臣蔵」でいったら、やっと討入り
の場面。(そんなええもんかい)「フランダースの犬」で言ったら、
大聖堂の絵の前で息絶える場面。(終わっとるがな)「ガンダム」
で言えば、「ククルス・ドアンの島」の回。(めっちゃサイドストーリーやん)

瓢箪からコマですが、僕は落語大学のメイン・ストリームからは
およそかけ離れた人間であり、落語大学史のサイド・ストーリーって
いうのは、なんだかしっくり来るような気がしてます。
こんな話がメインやったら、部がつぶれとるっちゅうねん。

また、茂八さん、盛都さん、市松君、マイミクのはやてさんより
コメント、メールなどで励ましを頂き、思わず顔が半笑いになる
位喜んでおります。本当に、ありがとうございます。

実は、もう、最後の回まで書き終えているのですが、ここへ来て
当時のビデオをもう1回観たくなり、押入れの段ボールからVHSのカセットを
引っ張り出してきたところです。
ですので、更新はしばらく休みます。
はたまた、興が乗って、当時のネタを全部起こしてアップするかもしれません。
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「阿弥陀池」と私 (9)
2006/08/25(Fri)
 吹田メイシアター、小ホール。キャパはそんなに多くないが、客席がステージを中心に扇形に広がり、落語は凄くやりやすい、と、他の部員から聞いていた。なんせ、僕は学外公演の演者選びからは外れっぱなしで、すねかじりはおろか、恥ずかしながらメイシアター小ホールでさえ、出たことがなかったのだ。
 開口一番(前座)の1回生の萬坊が、「江戸荒物」を演じて会場を暖める。引退公演のお客は、演者の知り合いがほとんどなので、お客としては最高にやりやすい部類だ。
 一旦閉まった緞帳が、司会の「それでは張り切って、どうぞ!」の掛け声を合図に、静かに開き始める。僕の出囃子(でばやし。舞台袖から舞台までの移動間に、三味線と太鼓で演奏される曲)が始まった。曲は「暴れ」。曲が一周してから、おもむろに舞台袖で一礼し、舞台へ向かう。袖にいる後輩たちが「お願いしまぁす!」と大声で送り出してくれる。
 舞台はスポットライトで光り輝いていた。逆光でまぶしくて客席が見えない。徐々に目が慣れてくると、客席がすでにほぼ満席なのが見えてくる。
 僕のテンションは上がる所まで上がりきっていた。視界がやたらクリアで、ハイビジョン映像でも見ているようだったのを覚えている。
 ネタに入る前にマクラと言って、何か面白いことをしゃべってお客をつかみ、スムースにネタに入れるようにするのだが、この日ばかりは、僕は実はマクラのネタ帳まで作っていた。会社四季報の各会社のページに、会社の状況を顔のパーツの上がり下がりで表現しているのがあるが、僕が内定した会社は、「もうすぐトップ10」で落ちてきているサルのマークみたいにえらい泣いてました、てな話とかをした記憶がある。
 そして、見台(演者の前に置く、木製の小さな台)にチョボ(小拍子。細長い、ハイチュウくらいの大きさの木2本。見台に打ちつけて、音でネタの開始を観客に告げたり、場面転換を示したりする)が打ちつけられ、その音で、僕の4年間の落大生活の全存在を賭けた「阿弥陀池」が始まった。

ロックンロール。ぶっ放せ、俺。 (つづく)

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「阿弥陀池」と私 (8)
2006/08/24(Thu)
 自分がやっていることの根本的な不安はあったものの、ただ、ネタが完成し始めた寄席直前段階では、これはもう、絶対にバカ受けするわ、と妙に自信を持っていた。落語大学史上、かつてありえないほどのオリジナル・ギャグを満載した「阿弥陀池」が姿を現していた。自分でやってて、面白くてしょうがなかった。新しいギャグをネタに入れるかどうかの最終的な判断基準は「自分で面白いと思うかどうか」で、かつ、なるべく冷静に、自分がそのネタを演じているところを想像して、それが面白いかどうかを検証した。そして、自分が持っている技量で実演可能な、一番面白い表現方法を採用した。
 すこし話が横道にそれるが、こういったアレンジの中で注意すべきなのは、笑いのモノサシとなる常識的な人物をどうキープするか、である。
エキセントリックな言動や行動をする人物は、常識的な言動、行動をする人物との「対比」で初めて、そのエキセントリックさの面白さ、すなわち常識からの「飛距離」が分かるのであって、その場の登場人物全てをボケさせて、そのままにしておくと、ヘタをするとただの「出来の悪い不条理劇」になってしまう。観客の感覚の片側を常識サイドに繋ぎ止めておく努力を怠ると、せっかくのボケの、常識からの振れ幅が不明確になってしまい、面白さが損なわれてしまうのである。
 こうやって文章にすると、えらく堅苦しいけれど、当時曲がりなりにも、4年間笑いの世界に身を置いた経験値で、感覚的にそういった事へ注意を払い、ボケの上にボケを重ねるボケ逃げのような事態にはならないよう、最後までネタをチューンナップし続けた。テロ決行の前夜まで、爆弾の出来をチェックするテロリストのように。

そして、最後の寄席、引退公演の日がやってきた。(つづく)
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「阿弥陀池」と私 (7)
2006/08/23(Wed)
(関西大学落語大学 第二十八期生引退公演 パンフレットより抜粋)

「阿弥陀池」と私                            関大亭豆蔵

 落語にはいろいろな人物が出てきますが、私にとって「アホの喜六」ほど魅力のある人物はいません。喜六は上方落語においてもっともポピュラーな人物ですが、無知、不作法、粗忽、臆病、好色、うぬぼれ、見栄、強情、嘘つき、厚顔、エゴイズム、強欲など、およそ考えられる限りの人間の「愚かな」さまを誇張し、集大成した人物であると思われます。「阿弥陀池」では、この愛すべき人物が主人公として活躍し、その魅力が最大限発揮されています。
 またこのおはなしは明治末期に作られたこともあって、現代的なセンスの笑いが随所に見られます。新聞という当時としては目新しいものを話の題材にもってくる点や、瞬間的な笑いを多く求めている点など、むしろ漫才的な手法も多く取り入れられています。
 このように、落語本来の登場人物の普遍的な魅力と、現代的な笑いの感覚、この二つの要件を満たしている「阿弥陀池」は、私個人にとって、もっとも「笑える」落語なのです。ことば遊び、つまりシャレのたぐいは時代によって変わっていくべきものだと常々思っていましたので、今回、舞台にかけさせて頂くに当たっては、旧来のネタに加えて、自分なりのアレンジもあちこちに加えてみました。
 私が最後の演目にこのおはなしを選んだのはやはり、一番シンプルな意味で「おもろい」落語への憧れ、最後まで一お笑い芸人としてお客様に大笑いしてもらいたいと言う願いがあったからに他ありません。最後の舞台をまえにして、このままずっと「落大の豆蔵」でおれたらなあという思いは強くなるばかりです。昔、デビッド・ボウイというミュージシャンは「私はステージの上で殺されたい」と言ったそうですが、今その気持ちが少しだけ分かるような気がします。でも残念ながら私はデビッド・ボウイではないので、来年からは一サラリーマンとして社会にご奉仕し、樋口行至という一市民として地域社会に貢献していきたいと思っています。
 最後になりましたが、四年間暖かい支援をして下さったみなさん、関大のクラブ関係者、友人たち、両親、後輩のみんな、諸先輩方にマルビル3杯分以上の感謝を捧げつつ、私の関大亭豆蔵としての最後のメッセージとさせていただきます。


今、読み返してみると、なにげに自分を正当化していて、また終盤は当りさわりのないことを書いていて笑ってしまうが、これを書いていた時はもう、遺書でも書いてる気分だった。もうここまで来たら引き返せない。(つづく)
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「阿弥陀池」と私 (6)
2006/08/22(Tue)
それでも、僕はビビッていた。こんなことやってホントにいいんだろうか。落大の名簿から抹消されて、OB仲間から省かれるんとちゃうやろか。今から思えば、明らかに考えすぎだが、そう考えてもおかしくないくらい、当時の落語大学の、全体をしばるイデオロギーみたいなもんは強力だったのだ。
 そして、「鑑賞会」の日がやってきた。鑑賞会というのは、寄席本番の前に、上回生の落語を皆で鑑賞しましょう、といった、身内のお披露目のような内輪の練習舞台である。
 舞台に上り、後輩の前で、確かこのような事を言ったように思う。

 「えー、もう、マジメにやりません
  好きなようにやらしてもらいます。」と。

 好きなようにやったのは事実だが、「マジメにやりません」といったのは、今から考えてみれば、それは「今までマジメにやって来た延長線上のことはやりません」と言いたかったんだと思う。マジメかフマジメかどっちなんだ、と言われれば、マジもマジ、大マジだった。こんなにマジメに「不」マジメなことをやったのは初めてだった。
 いきなり、ほとんど原形をとどめていない「阿弥陀池」が始まった。やりながらチラチラと観客の後輩たちを観察していたが、やはり受けが良かったのは1回生だった。皆、腹を抱えて笑ってくれていた。当時の1回生たちは、けっこうお笑い通と言うか、ふつうのオモシロにふつうに反応する奴らだったので、彼らに受けた事は実は僕にとって、とても重要だったのだ。
舞台を下りて後、ぺぷ志に、「豆蔵・・・それ、本番でも同じようにすんの?」と、トチ狂った同期を哀れむような目で聞かれた。返事はするまでもなかった。(つづく)
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「阿弥陀池」と私 (5)
2006/08/21(Mon)
最後の、一世一代の大勝負にかけるネタはどうするか。
ふつう引退公演は、それまでの集大成として、「いつかはやってみたいと思っていた」かなりの大ネタを、多少背伸びしてでも掛けるのが一般的だったように思う。しかし僕は前述のように、ひとり奇妙なたくらみを膨らませていたので、ネタ選びの基準は「今の自分で、最大限笑いが取れるネタはどれか。ネタそのものが面白くて、ギャグがアレンジしやすいかどうか。」だった。

ネタ選びに関しては、実はそんなに困らなかった。内心、ほとんど決めていたのだ。「阿弥陀池」に。

 「阿弥陀池」は、古典落語と言っても、大正時代に作られた「昔の新作落語」みたいなもんで、その他の古典落語とは明らかにベクトルの違う「オモシロ度」を持っていた。初代春団治がかなりデフォルメし、「爆笑落語」の異名も取るほどの、笑わせどころ満載のネタだった。何より、客観的に、現代人の感覚で聴いて理解できる面白さが一番多かった。引退公演で心中するネタはこれしかなかった。
 もちろん、そのままサラリと演じる気はさらさらなかった。ベースのネタ帳こそ、落語大学で皆がやっている「阿弥陀池」だが、一字一句徹底的に検証し、詰め込めるだけの笑い部分を詰め込んだ。オリジナルのアレンジを至る所に施し、桂べかこ(現南光)のネタも取り入れた。とにかく、笑わせられるところを少しでも増やせるよう、病的なまでにネタを改造した。「シャディサラダ館」を「ドンキホーテ」に改装したみたいだった。あそこまで物事にこだわったのは、後にも先にもない位である。(つづく)
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「阿弥陀池」と私 (4)
2006/08/20(Sun)
当時、落語大学において、人物、感情至上主義は絶対だった。今から振り返って考えれば、いささか妄信的に祭り上げられていた。体育会同然の厳しい上下関係を構築していた当時の部内の雰囲気と、なぜか妙に相性が良かったようにも思える。そして、ストイックさを追求するあまり、厳しさが前のめりになって、必要以上の緊張感を生み出してしまっていた嫌いもあった。そして、とんだお門違いではあるが、自分がその方針の中で、上手く成長できなかったことへの逆恨み、みたいなところもあり、当時の落語大学の、あまり益の無い虚像みたいなもんをブチ壊したい衝動に、だんだんと駆られていたのも事実だったのだ。

もちろん、そういった厳しさをバネに、ぐんぐん成長する人は当然いた。同期の学長(部長)、ぺぷ志がそうだ。彼は、学長になった当初は「演じ方がコミカルすぎる」だの「そんなん学長の落語と違う」だの、ボロクソにこきおろされていた。学長になりたてのころは、ノイローゼになりかかり、とにかくぴいちとか僕とか、同期の実務肌の人間は、彼に余計なことを考えさせず、落語だけに没頭できるよう、しゃにむに部の切り盛りをしたものだ。
ただ、彼の偉大なところは、そういった様々な意見を自分なりに消化し、コミカルな軽い語り口は残しつつ、しっかりした面白い人物、感情を表現できる、学生離れした、化け物のような演者に短期間で成長したことだ。すねかじり寄席のトリで演じた「寝床」で、凄まじい完成度と面白さを見せ付けた後は、そんな批判は聞こえなくなった。全く大したものである。
ただ、僕はダメだった。結果を出せる技量も、センスも、おそらく練習量も足りなかったのだろう。勝手に考えすぎて勝手に自滅していたのだ。ただ、このまま終わってしまうのだけは我慢ができなかった。(つづく)
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