語は言篇に吾(われ)、即(すなわ)ち吾自らを言い表す
2014/04/01(Tue)
文枝師匠の朝日のコラムを、是非社会人落語家の皆さん全員に読んで欲しくなったので、勝手に転載します。
これはプロについて書かれたものですが、あの大会についても、同じ想いを持たれていると思えてなりません。
(以下コピペ)


朝日新聞デジタル
2014年03月31日 15時19分


(六代文枝のGolden70s)大相撲と落語


■真剣な稽古が生命を吹き込む

 大相撲春場所の11日目を観戦してきました。東前頭筆頭だった遠藤関が勝った日です。勝利の瞬間、館内の興奮は最高潮に達してました。その日のどの取組よりも、盛り上がっていたのではないでしょうか。
 強い日本人力士が現れることを熱望している相撲ファンの正直な気持ちだったのでしょう。しかし、優勝したのは大関の鶴竜関。国技・大相撲は3人横綱となり、全員がモンゴル出身者という事態になりました。

 実は、昭和12(1937)年に発行された落語専門誌「上方はなし」に、先代の米団治師匠がこんな文章を書かれているのです。

 落語は立派な芸術である。さればこれにたずさわる者の真剣さは、力士が土俵上の真剣さと毫末(ごうまつ)も差異があってはならない(『四世桂米團治寄席随筆』岩波書店、桂米朝編より)。

 相撲も、落語も、真剣に取り組まなければ悲境が待っているということでしょう。この春場所も真剣勝負が繰り広げられたと信じていますが、日本人力士がよほど頑張らなければますます空席が目立つのではないかとファンとして心配です。

 先の文章が発表されたころ、人気だった初代桂春団治は亡くなっており、上方落語は凋落(ちょうらく)の一途をたどっていました。大きな原因は落語家が「あまりにも迎合し過ぎた」ためと米団治師匠は書いておられます。

 今、上方落語には定席「天満天神繁昌亭」があり、上方落語協会会館が建ち、その会員数も250名にならんとしています。しかし、だからこそ、浮かれていてはならないのだと思います。師匠の随筆「真の落語」に戻りましょう。

 落(おと)し話なれば落話でよいはずであろう。それをなぜことさらに落語と言うか。話は言篇(べん)に舌、つまり舌先で喋(しゃべ)る事である。しかるに語は言篇に吾(われ)、即(すなわ)ち吾自らを言い表すという意味である。(中略)つまり噺(はなし)を暗記してそれを喋(しゃべ)ったのでは、いかに巧くとも全然価値のないものなのである。ただ故人の糟粕(そうはく)を嘗(な)める死物に過ぎない。自分自身が落語そのものになり切ってしまって、その自分をボツボツ語り表すのが真の落語なのである。そうでなくて芸に生命の入る道理がない。生命のない芸に人を魅する力のないのは自明の理である。

 この言葉に耳を傾け真剣に稽古しなければ、落語会も空席が目立つことになるだろうと感じています。
この記事のURL | 未分類 | CM(2) | TB(0) | ▲ top
<<04/01のツイートまとめ | メイン | 03/28のツイートまとめ>>
コメント
-  -
素晴らしい物を読ませていただきました。
私も全く同感です。
そうですか、文枝師は、
いつもそんな思いで臨まれていたんですね、
【新婚さんいらっしゃい】に。
2014/04/01 16:02  | URL | 微笑亭 さん太 #-[ 編集]
-  -
さん太さん

私も大変感銘を受けました。
たぶん「三枝の国盗りゲーム」で培われた
ものと思います。何事も経験ですね。
2014/04/02 11:26  | URL | 豆蔵 #-[ 編集]
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://mamenov.blog64.fc2.com/tb.php/1603-57b56304

| メイン |